日蓮宗 香雲山 妙政寺

現住職が入寺した30年前の頃は「ここのお寺は日蓮宗です。妙見宗ではありません」、といくら申し上げても「妙見さん」。お檀家さんまで「妙見さん」。この地域では多くの方が日蓮宗のお寺であり、また檀家であるという意識がありませんでした。かなわんなぁ。
あ、いまは大丈夫です。ちゃんと日蓮宗のお寺という認識を持っておられます。

ここではちょこっと妙政寺のことを紹介させてもらいます。


沿 革

【妙見信仰と河内一心講】

日蓮宗には妙見大菩薩を奉安する寺院が多いんです。これは祖師(日蓮大聖人)が妙見大菩薩との関わりを示す話が多いことによるとされています。日蓮宗の檀越で中世において現在の千葉県一帯を領有していた千葉氏も妙見信仰に篤い一族として知られていますね。妙見大菩薩は北辰尊星妙見大菩薩と呼ばれ、千葉一門が興した「北辰一刀流」も妙見信仰から名付けられたものなんです。また葛飾北斎も妙見信仰が篤く、その名もやはり北辰から取ったものだといわれているんですよ。

 関西には妙見大菩薩を祀る社寺が多く存在します。能勢妙見は日蓮宗真如寺の奥の院なんです。社寺と表現しましたが、妙見宮として神社で有名なのは交野市妙見宮でしょうか。明治初頭の廃仏毀釈運動の中で、菩薩として奉安できず神社に形態を変えたものも多いようです。

 さて、妙政寺の母体となったのは「河内一心講」だといわれています。しかし、「河内一心講」の実体はよく分かっていないんですよね。ただ分かるのは、当時の加納村(現川田地区を含む)には少なくとも5か寺あって、浄土真宗4か寺・融通念仏宗1か寺という念仏王国であり、そういう土壌に妙見信仰を介した法華信仰集団である「一心講」が幕末に存在し、この地に妙見堂を建立したということなんです。

創建年代について

さて、妙政寺はもともと「妙見堂」と呼ばれ、加納村のほぼ中心に存在しました。
その後昭和5年に本格的なお寺として、現在地に土地の寄進を受け、移転再建築されました。本堂の木材は「妙見堂」当時のものがそのまま使われています。
移転の折、落慶式の集合写真ですね。


創建から150年記念に妙政寺150年誌という小冊子を作成しました。
それから10年経ちましたが、まだまだ調べなければならないことがたくさんあります。たかだか160年前のことがよくわからないのです。


門を入って左手奥に石灯篭があります。
妙政寺の創建年代を語る唯一の証人なんです。

慶應2(1866)年正月、とあります。ほとんど読めません。妙見堂が創建されたと同時に奉納されたのか、その後なのか。慶應2年正月に創建と同時に奉納されたとしても、その前提である妙見講なり法華講が存在せねばなりません。河内一心講が母体であるとは聞いていますが、その正体がわかりません。残念です。でも少しづつ、近づいていこうと思います。
ただ、一昨年妙見大菩薩の御厨子を修復した折に切り紙が出てきました。そこには嘉永7(1854)年春とありましたので、これは大きなヒントになりそうです。

現在地への移転

石灯篭は妙政寺に残る最も古い証言者です。
慶應2年正月という石灯篭の刻文ですから、お堂は少なくとも前年暮れには建立されていることになります。
 
 創建当初の「妙見堂」は現在の場所ではなく、今の加納2丁目9番地にある精米所の東側にあったとされています。
 妙政寺の西側を走る北行一方通行道路の遊歩道入り口に、加納村の古地図が掲示されています(もはやかなり読み取れなくなっていますが)。この古地図には妙見堂の位置が記されています。
 では「妙見堂」が現在の位置に移転したのはいつなのでしょう。
ここで妙政寺に現存する石碑・石塔に刻まれた年号からお話を進めて行こうと思います。
 まずは妙政寺のある敷地ですが、これについては昭和2年10月に寄付と刻まれた石碑が、門を入って左脇に建っています。土地の寄付者として西川謹五郎・吉田幸太郎のおふたりの名前が刻まれております。
 次に移転後の本堂の建立ですが、これも年月日の正確な記述が遺されていません。現在地に移転した「妙見堂」の落慶法要後の写真には門扉が写っていますが、この門に刻まれているのは昭和5年9月となっております。
新たな「妙見堂」が現在地に移転したのは昭和5年と考えてよろしいかと思います。この門扉の寄進者として中本伊之吉・西川謹五郎・吉田幸太郎・正地幸一・西川サダ・古川サダのお名前が刻まれています。
 「妙見堂」は第6世・馬場英龍上人の代、昭和25年に宗教法人日蓮宗妙政寺として寺号公称を得ました。
 門前に妙政寺の山号と寺号を刻んだ石碑が建っています。昭和26年10月に建碑されたものです。武田竹次郎・武田保吉・武田米造・武田末造の寄進と刻まれております。

 まことに残念なのは移転前の資料が存在しないことですね。

令和の大改修事業

平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災では当山も少なからず損傷しました。当時の護寺会長さん主導のもと、この年の3月から護寺会の会員は毎月積立を始めました。
平成7年当時は24軒の檀家数でした。
たびたび新築か改修かという話題は上がったのですが、実行には至りませんでした。平成30年の台風21号により当山の本堂屋根も大きな被害を受けたことにより、本堂新築問題が再燃し、同年11月にワーキンググループを立ち上げることとなりました。
令和3年4月8日に護寺会総会を開き、本堂を新築することになりました。
護寺会会員の積み立ては25年に及びましたが、新築する本堂はこの積立金だけで賄うことになりました。
令和3年8月から工事が始まり、9月に地鎮式、そして10月30日には棟上げと順調に進みました。
令和4年2月16日に東大阪市より建築確認をうけて完成し、3月6日に落慶法要を営みました。
実は2月16日の完成というのは狙っていたわけではないのですがたまたま担当者の予定ではこの日の夕方が都合がよいとのことだったので間髪を入れずにお願いしました。
令和4年2月16日は西暦では2022年2月16日です。この日は日蓮大聖人御降誕800年の正にその日に当たったわけです。
その後、旧本堂と庫裡の大改修工事が始まりました。
旧本堂の建物は大改修後には客殿として利用しています。清心館と名付けました。

令和6年現在も外構工事は続いています。令和5年には塀の塗り替えと門扉の改修を行い、令和6年は古いブロック塀を取り壊してアルミフェンスを設置しました。

来年以降は境内墓地の整備をさらに進めていこうと思います。

皆さんがお参りしやすいお寺をめざしています。

妙政寺の歴代上人

妙政寺は「妙見堂」として慶應元(1865)年中の開創。谷町・本政寺第22世 順妙院日實上人により「河内一心講」を母体として開創されました。但し、「河内一心講」の実体は不明です。ただ、当時の加納村(川田地区を含む)には少なくとも浄土系寺院が5か寺存立する念仏信仰の土壌であり、そうした宗教的土壌に妙見信仰を介した法華信仰集団である「河内一心講」が江戸後期から末期に存在し、この地に妙見堂を建立したということは紛れもない事実です。

開山順妙院日實上人は鶏冠井檀林(かいでだんりん)の349世であり、当代一流の学匠であったこと、また中世・近世を通じて河内には法華基盤が脆弱であったことから、日實上人が妙見信仰として出来上がった「河内一心講」を法華信仰集団に導いたのではないかと推測します。当地にも微少ながらも法華信仰者がいたことが當山過去帳から窺い知れます。日實上人の河内布教にはそうした信仰者からの要請があったのかもしれません。
 このコーナーでは「妙見堂」から妙政寺までの10人・11代のお上人を紹介いたします
【妙政寺歴代上人】
・ 開 基 順妙院日實上人
      鶏冠井檀林349世化主。玄能466世。
      伏見法性寺より谷町本政寺22世。
      明治16年10月10日遷化。63歳

・ 第2世 春妙院日慈法師
      明治41年4月15日遷化。

・ 第3世 龍信院日行法師
      大正14年3月10日遷化。

・ 第4世 春静院日応法師
       大正11年4月25日遷化。 
  
・ 第5世 勝根院日養法師
     昭和13年7月10日遷化。世名桑田 英賢

・ 第6世 香雲院日鳳上人 
   当山中興。宗教法人格を取得。
   宗教法人日蓮宗妙政寺を公称。谷町本政寺27世。
   平成5年2月22日遷化。

・ 第7世 妙信院日善法尼
   昭和36年3月4日遷化。

・ 第8世 慈妙院日中上人
   深草・元政上人の研究で著名。歌人。
   當山高祖七百遠忌を奉行。

・ 第9世 中道院日行上人
   當山高祖御降誕七五〇年を奉行。
   退寺後、高松妙法寺六世を継承。
   令和2年2月2日遷化。

・ 第10世 慈妙院日中上人(再)
   8世再住。高松妙法寺5世。
   平成16年1月1日遷化
      
・ 第11世 玉慈院日情(現住職)
    平成6年7月住職認証。
    平成23年5月より令和元年9月30日まで日蓮宗大阪市宗務所   
    長。

    平成26年9月より枚方市慈光教会担任を兼務。
        令和2年4月より令和5年8月まで旭区妙見閣寺代務

 妙政寺には歴代廟がありません。開基順妙院日實上人から6世香雲院日鳳上人の間の2世~5世は法師号で上人号ではありません。おそらく堂守として居住されておられたのでしょう。現在、加納川田墓地に勝根院日養法師のお墓と、その横に妙政寺歴代と記されたお墓があります。