河内の民話
今日は妙政寺のブログで紹介している民話についてお話しいたします。

妙政寺のお檀家さんに西川増子さんという方がいらっしゃいました。
郷土民話を収集され、その語り部として活躍されてこられた方です。

以前から御自身の収集されてきた民話について出版もされていらっしゃったのですが、こうしたネットで発信という手段がなかった頃のことですから、生前、住職のわたしに「何か役立てていただければ」と何冊もの本をお預かりいたしました。
データ化しやすいものから紹介しております。

語り部の西川増子さんが出版された本に語られた自身の想いを、ここに掲載させていただきます。
また、徐々にデータ化して紹介していきます。

 私達の郷土東大阪は、生駒山地で大和と境を接し、河内平野のほぼ中央部に位置しております。
 古くより河内平野を幾筋にもなって流れる大和川の運ぶ土砂の堆積によって、次第に形成されていった三角州や微高地、生駒山麓の扇状地が、人びとの生活の舞台となっていて、大和川の流れを利用する水上交通は、大和と難波を結ぶ交通の要衝として、大きな役割を果たしてきました。
 しかし、その大和川の流路は、屈折が多く水勢も緩慢で、次第に天井川隣、ひとたび大雨になると、川水が溢れて、堤防が決壊し、田畑や村落は泥酔に浸され、家が流出するなど、洪水による惨禍は、人びとにとって最大の辛苦となっていました。
 1704(宝永元)年、今米村の中甚兵衛によって、大和川のつけ替えが行われてより、多くの新田が開発され、天下の台所大坂の近郊農家としての営みを続けてきました。
 その長い間、為政者による政策に翻弄されながら、自然の災害による苦しみにも耐えて、この地にしがみつき、精いっぱい生きてきた郷土の人びとの姿が、親から子へ、子から孫へと語りつがれてきた多くの民話の中に浮き彫りにされております。
 私が収集しました民話は、数多くありますが、本書は、ミニコミ情報(あさひぴーぷる)に、平成2年より、毎月掲載された36話をまとめたものです。
 郷土の先人たちの、生きるための生活の知恵や、道徳観、また宗教思想や、その時どきの切実な願望などを読みとっていただければ幸いに思います。
                        加納 西川増子

 昔 話 し

堤所のお地蔵様

加納の東から流れてきた井路川は日の本の樋(ひ)から二つに分かれています。その一つの流れに沿って百㍍程北西に小さな地蔵堂がひっそりと建っています。このお地蔵様はたいへん霊験あらたかだと、村人の厚い信仰を集めておられます。それには、こんな話が伝えられているからなのです。
 ある年の5月、毎日続く梅雨は、黒々とした濁水を下流へおし流していました。豊吉さんが川のようすを見回りに来たときです。濁流の中から射るような一筋の不思議な光を見たのです。光はまもなく濁流に消されたのですが、なぜか豊吉さんの心に強く残りました。
 また、その年の8月の夜のことでした。村の与助さんが光の差した堤へさしかかった時、川の方から声がしたように思いました。ちょうちんを差し出して川面を照らし、あたりを見回しましたが何も見当たりません。気のせいだったかと5、6歩あるきだしました。
 と、「助けてくれ!」含み声が聞こえるのです。
 「誰か川に落ちたのでは!」と、慌てて川を調べましたが、水は静かに流れているだけです。近所の人を呼びなおも必死に調べました。でも何事もありませんでした。
 それから、秋風の吹くころにも同じ声を聞いた人がありました。続いて聞こえる不思議な声や光に、村人は「キツネやタヌキの仕業ではなさそうや」「濁流で光るのも不思議や」「ずっと昔の紀州のお寺の話やけどー、海の底から金色の光が差すので、海女がもぐって調べたら金無垢(きんむく)の観音さんが沈んでおられたんやと聞いたことがあったで」「もしかして……」などと言う人があって、村中総出で川さらえをすることになりました。
 水をせき止め、すきやくわで底の泥を上げました。何度目か泥をすくい上げた時、カチッとすきの先に硬いものがあたりました。若者数人が、力を合わせて引き上げたのは1メートル程の石塊でした。
 その石の泥をとり除いた人々の目に映ったのは、船形石に浮き彫りにされたお地蔵様の尊いお姿だったのです。

 いままでの不思議な光や声などは、このお地蔵様のなされたことだったんだと合点した村人は、美しい水で洗い清め、清水地蔵と名付け、この地におまつり申し上げたというのです。
 その年は例年にない豊作で村中喜びにわきました。「お地蔵様を川底からお助けしたおかげに違いない」と、その後毎年8月24日の地蔵盆には、五穀で干支(えと)や、御名を表現する飾りつけなどをして、その御徳をしのんでいるのですって。

過去の昔話

預かった赤ん坊

 めっきり冷える秋の夜でした。加納村の源太さんは、妹のお里さんが産気づいたとの知らせで、お見舞いに行こうと夜道を急いでいました。おかげ灯ろうの横を曲がろうとしたとき、宇波神社の方から近づいてくる人影をみました。
 灯ろうのあかりに照らし出されたその影は、見たこともない美しい女の人でした。「ついそこまで、急いで行かんなりまへん。この子を、ちょっとの間お願いもうしま」女の人の言葉には、断ることのできない強い響きがあります。源太さんは、思わず両手を出して受け取りました。女の人はせかせかと急ぎ足で南のやみに消えていきました。
 源太さんは、とんでもないものを預かったと思ったのですが、かわいい赤ん坊の寝顔には見とれてしまいました。どれだけ時間が過ぎたのでしょう。赤ん坊が急に重たくなってきたのです。びっくりして赤ん坊を見ましたが、寝顔はかわりません。その間にも、赤ん坊は石のように重くなってきます。あまりの重さに放り出したくなるほどで額には油汗がにじんできました。
 もうこれ以上は耐えられないと思ったそのとき、すうっと一度に軽くなったのです。やれやれと思って赤ん坊を見ました。赤ん坊は相も変わらず、気持ちよさそうに眠っています。まもなく女の人が疲れた様子で帰ってきました。そして丁重に礼を言い、赤ん坊を受け取ると神社の方へ帰っていきました。
 ほっと息をついた源太さんは、「えらいおくれてしもうた……」と、お里さんの家へ急ぎました。お里さんは、無事に男の子を産みおとしていました。「やれやれそれはめでたい」と喜んで赤ん坊の顔をのぞきこんだ源太さんは、声も出せず息をのみました。赤ん坊は石のように重くなった先ほどの赤ん坊の顔にそっくりなのです。
 その上、お産の様子を聞いて、またまたびっくりしてしまいました。ひどい難産だったのです。母子ともに死ぬのではないかと思うほどにお里さんの苦しんだその時刻には、源太さんが預かった赤ん坊が石のように重くなったときです。やっと生まれたときは、腕が急に軽くなった時刻でした。あの女は、いったいだれだったのでしょう。
 加納の村人が五穀豊穣を願う氏神さまは、孝元天皇の妃(きさき)で河内青玉繋(かけ)のむすめ埴安媛(はにやすひめ)さまだといわれています。その女神さまが、赤ん坊を源太さんに預けた女(ひと)で、あの夜氏子であるお里さんの難産を救って下さったに違いないと、村人たちは今でも信じています。

昔話の里

こちらのコーナーは過去に紹介した民話のページです。
出来るだけ多く紹介したいので、頑張ります。